皆さんは、ボクサーといえば誰の名前が真っ先に挙がりますか?
おそらく、大半の方は「井上尚弥」とお答えになるでしょう。
それもそのはず。
井上選手の常識破りの活躍はすさまじく、他の追随を許さないものがあります。
しかし-。
ひと昔前のファンの中には、井上選手以外の名前が真っ先に飛び出す人も多いのです。
主に1990年代に活躍した選手で、今でこそメディアへの登場がほとんど見られないものの、その人気は依然として根強いものがあり、記録にも記憶にも残るボクサーとして、世代を超えて語られているひとりのカリスマボクサーがいます。
ボクシング界に燦然と輝く、カリスマ的な存在――それが辰吉丈一郎(たつよし・じょういちろう)です。
彼の波瀾万丈の人生は、観客を熱狂させ、多くのファンの心を捉えてきました。
今回は、辰吉丈一郎のカリスマ性と、その背景にある努力や挑戦を紐解いていきましょう。
辰吉丈一郎とは
元WBC(世界ボクシング評議会)バンタム級王者。
元日本同級王者。
生後まもなく両親が離婚、父親の男手ひとつで育てられる。
保育園でイジメに遭い、父親に言われて意を決してイジメっ子に反撃して”勝利”したのをきっかけに積極的になる。
中学校時代は悪いことも数々、そしてケンカもたくさんしたが、自身がイジメられていた経験から、弱い者イジメには決して手を染めず、「みんなから嫌がられない番長」(中学校時代の担任の先生)だったという。
5歳くらいの頃から父親からボクシングの手ほどきを受けており(素人である父親の我流ボクシング)、中学校の担任の先生(体育教師)が家庭訪問時に父親とのスパーリングを見て「モハメド・アリのようなボクシング」と感じ、「これはただものではないと素人が見てもわかります。」と語っている。
その担任教師(3年間担任)の勧めで中学卒業後単身上阪し、大阪帝拳ジムに入門してアルバイトをしながら本格的にボクシングを始める。
17歳で全日本社会人選手権バンタム級優勝。
アマチュア戦績19戦18勝(18KO・RSC)1敗。
1989年9月、19歳でプロデビュー。
デビュー4戦目で日本王座獲得、8戦目で世界王座獲得。
網膜裂孔・網膜剥離と2度の眼疾を乗り越えて王座に返り咲くなど、波瀾万丈のボクシング人生が人々の心を打つ。
辰吉丈一郎のカリスマ性
辰吉丈一郎は、まさにカリスマそのものと言えるでしょう。
彼の存在感は圧倒的で、リングの上で老若男女問わずファンを熱狂させてきました。
その要因には、幾つかの側面があります。
①強さと実力
辰吉丈一郎の最大の魅力は、その強さと実力にあります。
プロデビューからわずか8試合で世界王座を獲得したことは、日本人選手としては当時最短記録でした。
暫定王座(=後述)も含めると、3度の世界王座獲得を果たすなど、その実力は折り紙付きです。
1997年のシリモンコン戦では、「無敗の20歳の王者vs世界戦3連敗の元王者」として辰吉が圧倒的不利という大方の予想を見事に覆し、7回TKO勝利を収め、3度目の世界王座に返り咲きました。
まさに1990年代のボクシング界は、辰吉丈一郎とともにあったといっても過言ではない、という程の圧倒的存在感と輝きを放っていました。
②観客を惹きつける存在感
辰吉丈一郎は、リングの上で観客を惹きつける圧倒的な存在感を放っていました。
軽快な動きと、挑発するような攻撃スタイルは、ファンを熱狂させるに十分でした。
その人気はすさまじく、辰吉の試合では会場はいつも満員の観客で埋め尽くされていました。
また、辰吉はメディアへの露出にも積極的でした。
この姿勢は、ファンとの距離を近づけ、圧倒的人気とカリスマ性を高めていったのでしょう。
③波瀾万丈の人生
辰吉丈一郎のカリスマ性は、彼の波瀾万丈の人生からも生まれています。
幼少期からいじめられっ子だった辰吉は、父親に教わったボクシングの技術を磨き上げました。
そして、度重なる眼の疾患に悩まされながらも、それを乗り越え、2度も世界王座に返り咲いています。
このように、困難に打ち勝ち、夢や目標を諦めずに最後までたくましく戦い抜いた姿は、多くのファンに感動を与えてきました。
辰吉丈一郎の人生そのものが、ボクシングファンの心を捉えてきた所以なのです。
以下、具体的に見ていきましょう。
辰吉丈一郎が残した功績
~網膜剥離からのカムバック、世界王座返り咲き~
これを抜きに辰吉丈一郎は語れないでしょう。
1991年9月の最初の世界王座獲得後、左目網膜裂孔が発覚した辰吉は、世界王座は返上せず(保持したまま)入院・手術の長期休養に入ります。
正規王者が防衛戦を行えない場合に、暫定王座というものが設置されることがあり、辰吉が網膜裂孔で休養中、この暫定王座に就いたのがメキシコのビクトル・ラバナレスでした。
正規王者は復帰後、暫定王者と王座統一戦をする義務があり、辰吉はトレーニング復帰後、この統一戦に向けてブランクを取り戻すべく過酷なトレーニングを行い、1992年9月、オーバーワーク気味な状態でラバナレスとの統一戦に臨んだことが予想されます。
結果は9回TKO負けでプロ初黒星、世界王座陥落となりました。
その後、1993年7月ラバナレスと再戦を行い、激しい打撃戦を制して判定勝利を収め、王座(暫定王座=詳細は割愛)復帰を果たしております。
しかし、その激しい試合の代償は大きく、試合後今度は網膜剥離が発覚したのです。
網膜剥離に罹患したボクサーは当時のルールでは日本国内のリングには上がることができませんでした。
辰吉は暫定王座を返上、再び長期の休養に入ります。
それでも辰吉は復帰後、1994年7月ハワイで再起戦を強行し、ホセフィノ・スアレス(メキシコ)を3回KOで撃破するのです。
この勝利でWBC(世界ボクシング評議会)は辰吉に暫定王座を返還し、辰吉の休養中に正規王者となっていた、薬師寺保栄(松田ジム)との統一戦を義務づけ、当時のホセ・スライマンWBC会長が「日本人同士の対戦だから日本国内で開催することが望ましい。」とのコメントを発するまでに至りました。
その後、様々な紆余曲折を経て、辰吉の国内復帰が「特例」という形で実現し、1994年12月「世紀の一戦」と銘打たれた薬師寺との「WBC世界バンタム級統一王座決定戦」が薬師寺の地元、名古屋市総合体育館レインボーホールで開催されました。
結果は正規王者薬師寺の判定勝利、辰吉は再び無冠となりました。
そして辰吉はここでもまたイバラの道を選択します。
今度は1995年8月ラスベガスで再起戦を行い、WBC米大陸王者のノエ・サンティヤナ(メキシコ)をほぼ一方的に打ちまくり、9回TKO勝利で復帰を果たすのです。
その後ラスベガスでもう1試合挟み、1996年月3月横浜アリーナでメキシコのダニエル・サラゴサの持つWBC世界ジュニアフェザー級(現在のスーパーバンタム級)タイトルへの挑戦が決定します。
なお、この試合が国内で開催された時には、日本ボクシングコミッション(JBC)は網膜剥離に関するルールを見直しており、「世界戦」「世界戦に準ずる試合」に限り日本で試合が出来ると緩和していたのです。
辰吉の熱意と行動が周囲を動かし、全国のファンも署名活動に参加したりと、このルール改正には多くの人々の尽力がありました。
私はここに辰吉の知名度・絶大な人気ばかりではなく、ボクサーとしての偉大性・そして彼の人間性と、ありとあらゆる辰吉丈一郎の存在感や魅力が詰まっていると感じております。
試合の方は、サラゴサがほぼ一方的な展開で11回TKO勝ち。
辰吉は白のトランクスを鮮血で真っ赤に染めながら果敢に立ち向かいましたが及びませんでした。
「彼は経験不足だがライオンのように勇敢だった。」とは試合後のサラゴサのコメントです。
翌年4月もサラゴサと再戦しましたが、判定負けで雪辱ならず。
この頃になると、世間では「辰吉限界説」が元世界王者の方々を含め、あちこちから飛び出していました。
それでもなお、辰吉は再起の道を選ぶのです。
1997年11月、階級を本来のバンタム級に戻し、WBC世界バンタム級王者のシリモンコン・ナコントンパークビューに挑戦します。
試合は5回に辰吉が王者から先制のダウンを奪いましたが、その後王者の決死の反撃に遭い、あわや逆転KO負けというところまで追い込まれます。
しかし、7回、顔面への右から左のボディーブローを放つと王者は前のめりに2度目のダウンを喫します。
なんとか立ち上がった王者をすさまじい連打で追撃し、王者がふらふらとロープ際に後退したのを見たレフェリーが試合をストップし、7回TKOで辰吉の勝利となりました。
辰吉の約5年ぶりの王座返り咲きに大阪城ホールの1万1000人の観客は歓喜に沸き、本人も勝利者インタビューで感極まって涙ぐむシーンもありました。
2度の眼疾に見舞われ、数々の敗戦を繰り返しても立ち上がり、己を信じて信念を貫き通し、そして見事に王座復帰を果たした辰吉丈一郎。
圧倒的実力で人々を魅了してやまない井上尚弥とはまた違った魅力が辰吉にはあり、その波瀾万丈でドラマチックなボクサー人生が人々を惹きつけ、努力と根性で王座に返り咲いた実績を誰もが認めたからこそ、彼がボクシング界における唯一無二のカリスマ的地位を確立するに至ったのでしょう。
年間最高試合の評価
1997年のシリモンコン戦は、「辰吉丈一郎奇跡の復活」として、日本ボクシングの年間最高試合に選ばれました。
この試合は、辰吉丈一郎の波瀾万丈の人生を象徴するものでした。
辰吉丈一郎の試合は、何度観ても興奮と感動が溢れ出ます。
まさに、ボクシングの歴史に燦然と輝く伝説的な存在なのです。
次世代への影響
辰吉丈一郎のカリスマ性は、次世代のボクサーにも大きな影響を与えています。
今ではボクサーとして真っ先に名前が挙がるのは井上尚弥ですが、辰吉丈一郎の人気は今でも根強く、世代を超えて語り継がれていることもあって、現役ボクサーの中にも辰吉丈一郎の影響でボクシングを始めた選手は数多くいると推測されます。
さらに、辰吉丈一郎の次男である寿以輝もボクサーとなり、世界王者を目指しています。
親子二代での世界王者は、まさに夢のような話です。
辰吉丈一郎の存在は、ボクシングの発展にも大きく貢献しているのです。
まとめ
辰吉丈一郎は、日本を代表するボクシングのカリスマです。
強さと実力、観客を魅了する存在感、そして波瀾万丈の人生が、彼のカリスマ性を生み出しました。
さらに、ボクサーとしての軌跡、次世代への影響など、辰吉丈一郎の功績は計り知れません。
我々は、辰吉丈一郎のような伝説的な存在に触れることができた幸運を、心から喜ぶべきでしょう。
辰吉丈一郎のカリスマ性は、永遠にボクシングファンの心に残り続けるはずです。